壺買えば救われるってマジですか?!

宗教

總持寺にて御朱印帳をいただいた時に、「曹洞禅グラフ」という雑誌をもらいました。
こちらは禅仏教の教えを分かりやすく広めるために昭和57年から発行されているようです。

今回は「曹洞禅グラフ No.163」掲載の「旧統一教会の問題から信仰のあり方を考える」という記事を引用しながら、霊感商法と献金について考えていきます!

霊感商法とは

そうしたら鞄から壺が出てきて、「ここに息子さんが映っていますよ。悲しそうな顔をしています。この壺をお買いになれば成仏します」と言われたらしい。

曹洞禅グラフ No163 5ページより

曹源寺住職の中村瑞峰師が聞いたある女性の話です。彼女は息子を20歳くらいで亡くし、憔悴していたところ、駅前で声を掛けられ、上記のように壺の購入を勧められたそうです。
瑞峰師が値段を聞くと「138万円のところ92万円で買いました」とのことです。

これが正に霊感商法です。人の弱みに浸け込むアコギなやり方です。

壺を売る末端信者

彼のマンションを尋ねると壺がたくさん並んでいました。そして彼らはいんちきなものを売っているという認識はなく、壺を買えば本当に救われるはずだと信じて販売していたのです。

曹洞禅グラフ No163 5ページより

宗教学者の正木晃氏が1980年代半ばに韓国の大学で教鞭を取っていた頃、霊感商法でキャップのような役割をしている男性宅へ行った時の話です。
霊感商法を行う末端信者は本気でいいことをしていると信じてるのは驚きですね。

また、瑞峰師によると「世直し型の新興宗教にはまる青少年は、純粋な人が多く、社会の矛盾を感じ、世の中を変えたいと、善本位でものを考える。
ただし、カルトは組織側と一般信者では一線を画するものがある」そうです。

純粋で正義感の強い人ほど、悪気なく霊感商法の片棒を担いでしまいやすいとは、なんとも皮肉ですね。

脱退は難しい

旧統一教会では「神の真理を学ぶとサタンが寄る」と言います。どこに寄るのか。身内に寄る。だから身内が騒げば騒ぐほど、遠のくんです。

曹洞禅グラフ No163 6ページより

家族や友人がカルト教を信仰し始めたら、どうしますか?
高価な壺や御札を買い漁り、教団の活動に手を取られ、日常生活に支障をきたす…。

大抵の場合、脱退するように説得するのではないでしょうか。
旧統一教会の場合、その説得は必ずしも効を奏さない。
下手すると、「神様の教えを広めようとしたからサタンが邪魔をした」と、ロミオとジュリエットのごとく、かえって信仰が深まる結果になりかねません。

身内をカルトから脱退させるのは非常に困難です。
自分たちだけで解決しようとせず、伝統的な教会やお寺、脱カルトの専門家の力を借りながら進めていく必要があるでしょう。

カルト教団の被害に遭わないために

「藁をもすがる」ようにして、師や宗教を選んでは、必ず禍根を残します。とにかく焦らないこと、慎重に選ぶこと、それが大切です。

曹洞禅グラフ No163 9ページより

藁をもすがりたいくらい苦しい時ってありますよね。
大切な人との別れ、金銭問題、仕事の悩み、病苦…。
そんな時に、「こうすれば解決する」と断言する人物に魅力を感じてしまうかもしれません。

しかし、着いていく人物は慎重に選ばなければなりません。
その人物が未熟であれば、あなたは地獄へ連れて行かれるかもしれないのです。

人生の問題と向き合う時、もし宗教に頼りたいと思ったなら、その指導者が信頼に値するかどうか、じっくり時間をかけて、よく見極めてください。

お金を払えば救われる?

結論から言えば、お金を払っても救われることはありません。
なぜなら、神様や仏様はお金を必要としていないからです。
神様仏様がお金を必要としない以上、「お金を払えば救われる」という論理が成り立つ余地は1ミリもありません。

それでは、お金を払えば救われるのは誰でしょう?

それは教団と上層部の人間です。

教えを広め、後世に伝えていくには信者が集まり、教団を形成する必要があります。
教団ができれば、信者が集う施設が必要になり、それを管理する人や事務手続きを行う人、専属の教師へも生活費を払う必要が出てきます。
教団を維持・発展させるにはお金が掛かるのです。

だから、教団が信者から献金を募ったり、壺や御札などを販売してお金を集めることが一概に悪だとは言えません。

ところが何事にも程度があります。
献金や物販が過度になり、信者の生活が破綻する。
あるいは上層部の人間が私腹を肥やすために献金を迫る。そんなことは言語道断です!

献金の基準

それでは、どのくらいの献金なら信仰生活をする上で妥当だと言えるのでしょうか?
100万円の壺は高価なのでしょうか?

この問いに答えはありません。
各々の経済状態や教団の状況によっても異なるでしょう。

こうして地の10分の1は地の産物であっても、木の実であってもみな主のものである。それは主の聖なるものである。

レビ記27章30節

キリスト教には献金の目安となる10分の1という基準があります。
この世のものはすべて神様の所有物ですが、得たものの10分の1を捧げれば、すべてを捧げたものと等しく扱われます。
この考え方があるので、教会では10分の1献金が推奨されることがあります。

月収20万円なら2万円、月収100万円なら10万円。

このくらいなら生活に支障をきたさずに支出することができるのではないでしょうか?
あくまで「10分の1」は一つの目安です。実際に献金をする時は、

①献金しても救われない
②生活に支障をきたさない範囲で支出する
③自らの意思で、自主的に行う

この3点を念頭に置いてください。
強制されて行う献金は神様仏様も喜びませんよ(^^;)

最後に

正直、宗教にお金を払うことを自分は長らく理解できませんでした。

祖父は曹洞宗を信仰しており、ある時信州のお寺から「修繕費で100万円ほど、寄付して欲しい」旨の手紙が届きました。
当時の幼い自分は100万円なんて大金を、年に1度顔を出す程度のお寺に支払うなんて馬鹿らしいと思っていました。

ですが、祖父は100万円をポンと出したんです。

信じられませんでしたね。

でも、今なら祖父の気持ちが少しだけ分かります。
きっと祖父は様々な苦しみの中を信仰を支えに生きてきたのでしょう。
その信仰に対する感謝の気持ちはお金に代えがたい価値があった。

お世話になった宗教に感謝の気持ちでお金を払う。

そのような信仰心を否定はできません。
一方で信仰心が行き過ぎて、巨額の献金が自身や周りの人にとっての苦しみの種となってはなんとも悲しい。

そうした思いで、献金の目安と考え方を示しました。

宗教にお金を払いたいと思った時に、この記事を思い出してもらえれば、うれしい限りです☆

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