お葬式って何のためにするの?!法話を聞こうin豊原寺

札幌のお寺

降りしきる雪の中、今回訪れましたのは、月寒エリアにあります豊原寺です!

浄土真宗法話案内→http://shinshuhouwa.info/

こちらのサイトで法座が開かれていると調べて来たのですが、入口には案内などなく…。
入口から中の様子を伺っていたら、ドアが開いて声を掛けられました。

「どうぞお入りください」

住職の奥さんと思しき女性に声を掛けられました。

お葬式の意味を知った法話

今回の法話はこちらのお堂で行われました!
自分が入るとすでに10名ほどのご年配の方がいらっしゃいました。
ほとんどが女性で、男性は1名のみでした。

「若い人が来ると、新しい風が入るわね〜」

大して若くもないのですが、人生の大先輩方からすれば、孫くらいの感覚なんでしょうか(^_^;)

写真引用先はこちら

講師は平取町、浄覚寺住職の内藤則雄師です!

前ローマ教皇と暗黒卿比較。

内藤師、若干ですが、前ローマ教皇・シスの暗黒卿に似ている…?

浄土真宗大谷派の法座は、最初に正信偈(教行信証の一部を読経)+念仏和讃(「南無阿弥陀仏」に節を付けて歌う)が30分ほどあります。
その間に焼香が回ってきて、お盆にお布施を入れます。
みなさん100円〜500円を入れているようでした。

念仏和讃が終わって、法話の始まりはじまり~♪

今日は話を聞いてくれる方がたくさんいて、話し甲斐があります。以前、聞く人が1人しかいないことがあって、その方は私と向き合うのが辛かったんでしょうね。ずっと下を向いていましたよ。私が休憩で中座して戻ったら、いなくなってました笑

聞き手は話し手がいるから、聞き手になれる。

これは分かりやすいんじゃないでしょうか?
法座でも講演会でもライブでもいいのですが、話し手がいるから私たちは聞くことができるんです。

逆はどうでしょう?

話し手は聞き手がいるから、話し手になれる。

これはちょっと分かりにくいかもしれませんね。
どんなに素晴らしい話でも聞く人がいなければ、単なる独り言。
聞く人がいないと話し手にはなれないんです。

自分と相手が支え合って初めて私たちは存在できる。

互いに支え合って存在していることを、仏教では「縁」と呼びます。

私は一人で存在しているようであって、実は誰かの何かの支えによって生かされている。
それは本当に「ありがたい(有難い)」ことですね(*^^*)

「頭を下げる」ことと「頭が下がる」ことは違いますよ

かわいい自分を守るために、裏で舌を出しながら「本当にすいませんね〜」と頭を下げることはできるんです。

人間の目は外向きに付いているから、自分のことは見えません。

見えない自分を、教えを通して見せていただく。その時に自然と「頭が下がる」んです。

これはなるほど〜!と腑に落ちましたね。

最近仕事でお客さんに「申し訳ありませんでした」と頭を下げることがありました。

確かに自分に落ち度はあったのですが、「そんなに大事にすることか?」と疑問に思いながら、場を収めるために胸の中で「ちっ」と舌打ちしながら、頭を下げました。

これは単なる世渡りと打算であり、自然に「頭が下がる」こととはまるっきり違いました(^_^;)
いつかこの傲慢な頭も、「実るほど垂れる稲穂」のごとく下がる日が来るのでしょうか…?

うちは檀家が37戸しかないんですよ。だから収入が全然ない。

お葬式もなかなかなくてね、みんな元気なんですよ笑

でもね、お葬式があるたびに檀家さんが1戸減るの。

若(息子)は「最低限食えればいい」ってお寺を継いだんだけど、どうするのかしらね。

ホント変な子でしょ?笑

これは田舎のリアルなお寺事情が聞けましたね〜!
これが全国の田舎で起きてることなんでしょうね。

お寺に限らず、よい技術や事業があっても継ぐ人がいない。
少子化ってのはそういうことですよね。教えたくても若者がいない。
誰にも引き継げないまま、高齢者が亡くなっていく。

後世に何が残り、何が消えるのか…?

これからその選別淘汰が厳しく行われていくのでしょう。
信徒の多い浄土真宗でこれなら、他宗派はもっと苦しいだろうな(^_^;)

通夜は仏教に出会うためにさせてもらっているんですよ。

私たちは送る身でありながら、いつかは送られる身になる。

亡くなる方はそれを身を持って示してくれてるんですよ。

だから、亡くなった方のことを「仏様」とお呼びするんです。

これは目からウロコでしたね〜♪

僕、お葬式って嫌いだったんですよ。
訳分かんないお経聞かされて、長い時間ジッとしてなきゃいけなくて、なんかお線香臭いし。。

でも、この話を聞いて見方が変わりましたね〜!

諸行無常の盛者必衰、生きてる私も必ず死ぬ。
その苦しみを見つめ、かつ乗り越えるために仏縁を結ぶ場が「葬式」
そう捉えると、退屈に思っていたお葬式にも違う意味が見えてきます。

今は分からずとも自分が変われば分かることって、たくさんあるんでしょうね!

昔は漬物が食べれなかったのですが、ここ数年で食べられるようになりました!
糠漬けはまだ無理ですが、いつかおいしさが分かるんでしょうか笑

「法要は何回忌までするんですか?」と聞かれることがあります。

決まりはありませんが、50回忌が一つの区切りになります。

法要は仏縁ですから、回忌を重ねるごとに、重く長くなっていくんですよ。

最初は短いお経から、だんだんと長いお経へ。

昔は50回忌と言ったら、お祭りみたいだったんですよ。

だって、家が50年続いたってことですから。

法要についてはまったく逆の考えを持っていましたね!

亡くなってから日が浅い1回忌や3回忌は、故人への思いが強く残っているから、しっかりした法要を。
年季が経つほど思いが薄れてくるから、徐々に法要を軽くしてフェードアウト。

ではなく、年季を重ねるごとに仏縁が深まるからしっかりした法要を行う。
50回忌も「家が50年続いた節目」と捉えれば、特に地域の縁が濃かった時代は、お祭りのように祝うのも納得できますね!

田舎から都会に出て核家族・単身世帯が当たり前の現代にあっては、多くの人がすっかり「忘れてしまった」感覚ではないでしょうか。

ここで法話を聞いて、その時は「分かった」と思うでしょ?

でもお寺を一歩出たら、外は娑婆。地獄ですよ。

「あ~、雪が降ってるな。夜ご飯何にしようか?スーパーで買い物して帰ろう」

そんなこと考えてたら、全部忘れちゃうんです笑

でも、それでいいんです。忘れるから、またお寺に通おうと思えるんですよ。

「忘れる」という言葉をこれだけポジティブに捉えてるのが面白いですね!
確かに人間がもっと賢くて、すぐに仏教が分かってしまうなら、誰もお寺に通う必要がありません。
それどころか、何の過ちを犯さない聖人ばかりなら、仏教だって必要ないでしょう。

人間がアホで聞き分けが悪いからこそ、仏法を聞く必要がある。何度も何度も繰り返し…。

これは実にありがたいことですよ!

安心してアホになれるんですから笑

茶会にて

豊原寺では、法話後に茶会が開かれるのが恒例のようで、長机をくっつけて、参加者が話始めました。
女性が多いだけあって、みなさん話が弾みますね!

自分は一人だけ初参加、年少の男性とあって、「どこから来たの?」「誰かのお孫さん?」などと質問責めにあってました笑

そりゃ、珍しいですよね。
お寺に行くと大体みんなご高齢の方ばかりで、現役世代の人を見かけることはほとんどありません。
そこに進んで飛び込む変わり者ですから笑

茶会で目を引かれたのはお菓子の量!
参加者の持ち寄りだったのですが、食べ放題くらいの山盛りがありました笑

茶会はだいたい30分くらいでしたね。
普段関わる機会のない方と話すのはいい刺激になります♪

茶会後にパイプ椅子の片付けを手伝いました。
折りたたんだ椅子を置き場に重ねて片付ける作業で、まったく負担感はなかったのですが、すごく感謝されました。
高齢の方には、このパイプ椅子もすごく重たく感じるんでしょうね。

これが釈迦の言う「老」の苦しみかー、自分もいつか行く道だなー、としみじみ思いました。

茶会後に「ほら、僕ちゃん持っていきな」とあれよあれよと渡されたお菓子の山です笑
ありがたく職場の人と分けました。南無南無(*^^*)

豊原寺へのアクセス

・地下鉄東豊線「月寒中央」駅1番出口より徒歩7分
・駐車場あり。台数少ないので注意。

<参考・引用>
浄土真宗法話案内(いつ、全国のどこで法話が聞けるか分かる便利サイト)

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